2017年10月31日

10月の出来事

2ヶ月のご無沙汰でございます。

どうしても最近はブログを更新するモチベーションが上がらず、気になりながらも捨て置いていたら2ヶ月も経った。明日からは11月になる。いっそのことどこまで放っとけるのか試してみてもよかったのかもしれないが、この10月はいくつか書きたい出来事があったので、まとめて書いちゃうことにした。
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バスケットボールと野球の話。
10月1日。初めてBリーグの観戦に行った。私はこう見えても(どう見えているのか知らないけど)、高校時代から大学院を出て千葉県の研究所に就職するまで、10数年間バスケットボールを嗜んできた。割と真面目に取り組んだと思う。くじ運が大きいとはいえ、大阪府のクラブチーム大会で4位にもなったことがある。まぁつまり、真面目にやってきた。真面目にやってきた経験者にとって、昨年から始まったバスケットボールのプロリーグはやはり気になるところである。特に今年は地元西宮(私の居住地は伊丹ですけど)のストークスがB2リーグで優勝してB1に昇格してきたので見逃せない。ということで、西宮に住む高校時代のチームメートのフルセとホームアリーナの西宮市立体育館に出向いてみた。西宮ストークスのエースである谷直樹選手は、フルセがキャプテンを務めた大学チームの後輩だ。対戦相手は富樫選手のいる千葉ジェッツである。

行ってみると思ったより楽しかった。そうやって観ていると、プロ野球の観戦経験が何年あろうとやはり自分は野球は素人だ、ということを痛感した。自分が選手として経験したバスケットボールを観ていると、プロ野球観戦よりも色んなことがわかって楽しいし、色んなことがわかって歯がゆかったりするのだ。試合中は完全に西宮ストークスの一員(しかもコーチ目線)になってしまって、「リバウンドやろっ」とか、「そこっ、シュートチェックっ!」とか、なんだかエラソーな声援になってしまったのはご愛敬である。試合の合間のエンターテインメントも割と楽しいし、また来てもいいと思った。ただ、試合場の西宮市立体育館はやはりプロのアリーナとしてはかなり物足りない。プロのリーグができただけでも、自分が現役だった時代とは隔世の感があるが、プロ野球のスタジアムのような専用のアリーナでゆったりとビールを飲みながらバスケットボールを観戦するのにはまだ少し時間が必要なんだろう。

試合後に、西宮北口駅近くの居酒屋でフルセと少し飲んだ。この店は美味しいものを出してくれたのだが、いかんせんカウンターの向こうの板前さんの愛想が悪い。注文をしようとすると聞いてくれず、「フロアの係に注文しろ」と言う。なんや、商売する気ないんかい。苦々しい気持ちで飲んでいて、ふと見るとカウンターの隣に野球解説者の小山正明さんがいらっしゃった。あの村山投手と双璧で阪神タイガースのマウンドを守った名投手である。声をかけようかどうしようか迷ったが、結局店を出られるときに握手だけしていただいた。

小山さんは「もうただの80過ぎのじいさんです」と仰ったが、その声や話し方はラジオやテレビの野球放送での解説のそれそのものだった。小山投手と云えば、絶妙のコントロールで有名だった。確か無四球試合の連続記録も持たれていたと思う。野球解説での口癖は「プロのピッチャーともあろうものが、狙おうたところに投げられないというはね、信じられないですよ」だった。そんな話をフルセとしていると、急にカウンターの向こうの板前さんの態度が変わった。常連客の小山さんの往年のことを私が知っているとわかって嬉しかったのか、急に愛想が良くなってイカ刺しのイクラ和えをサービスしてくれたが、あまり嬉しくなかった。お前、そんなことより客を区別せんとちゃんと商売せぇよ。

小山さんはとても元気そうだった。

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10月4日。午前4時半。父親の誠士(”あきお”と読む)が亡くなった。誕生日を目の前にしての数え年93歳だった。9月20日頃に「息が苦しい」と言いだして、近くの日赤病院で検査を受けて間質性肺炎と診断された。26日に自分で歩いて受付をすませて入院したらしいが、あまりに経過が早くてその一週間後に息を引き取った。前日に見舞いに行くと、私に茶碗を持たせて酸素マスクを外しては少しずつ、しかし一杯のおかゆを全部食べていた。息を引き取ったのはその12時間後だ。おそらく最後の最後まで自分が死ぬなどとは考えていなかったことだろう。いよいよの時、ベッドサイドにいた兄に銀行口座の暗証番号を伝えて、さらに小さく「南無阿弥陀仏」と唱えて逝ったそうだ。私は伊丹からクルマを走らせたが間に合わず、残念ながら死に目に会うことはできなかった。

大正の生まれである。通った四條畷高校では剣道で大きな大会などにも出場していたらしい。戦時中、二十歳になるかならないかで招集されて満州まで渡ったがそこで終戦を迎えた。復員してきて京橋駅辺りの空襲の惨状を見て、なぜか母親(つまり私の祖母)のもとに帰らずに、鶴橋で商売を始めたと聞いたことがある。最初は素人の商売ゆえに何度か人に騙されたりもしたという。高度成長時代に乗ってそれなりに商売は順調に進んで、おかげで兄や私は無事に(金持ちではなかったが)育ててもらえたのだが、日本の経済状況をもろに受けてやがて鶴橋の店も閉め、ここ10年以上は隠居状態で兄夫婦と一緒に暮らしていた。私の母親は確か1978年に亡くなっているのだが、それから40年近く独りで過ごしたことになる。頑固で気楽な変人だった。ピンピンコロリでこれ以上ない亡くなり方だったと思う。ありがとう。お疲れ様でした。

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明日から11月になる。実は1日付けで、愚息の一樹(”いっき”と読む)が阪大工学部に助教として就職する。採用していただいた研究室は、私のいる微生物病研究所の道路をはさんだ向かい側の建物にある。本人は将来に漠とした不安があるようだが、私の見るところ工学系と生物系では色々と事情が違うのでアドバイスできることはあまりない。「まぁがんばりぃや」と言うしかない。これから数年の人間関係や仕事の成果がきっと人生を左右することになるかもしれないね、、。確実に言えるのはそんなことしかない。子供の頃に微研のソフトボール大会にもぐり込んでバットを振っていた彼がお向かいさんの助教とは、、、私も息子も歳をとったものだ。きっと時々、微研下のセブンイレブンで顔を合わせることだろう、。向こうの先生にご挨拶なんぞに行ったらきっと本人は嫌がるだろうな、、、、、、、、。



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posted by Yas at 22:58| Comment(0) | 非科学的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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