2016年02月10日

"without any requirement for ,,,"

 研究の世界に長くいると、多かれ少なかれ誰しも何らかの科学雑誌の編集委員(Editorial Board Members)を務めるようになる。私もそうだ。多くはないが幾つかの国際雑誌(と自称、他称しているもの)の編集委員に名を連ねている。

 そのうちの一つに、編集委員を引き受けたものの、その役目を果たすのに少し重荷を感じている雑誌がある。この雑誌の出版社は、いわゆるメジャージャーナルとその姉妹誌をたくさん抱えていて、超高額な講読料や話題性重視(偏重)の編集方針(と世間で思われている)で、時折り研究者コミュニティーからやり玉に挙げられている。その出版社が抱える雑誌のうち、私が編集委員を引き受けたのは Open access, Peer review, Fast decision を唱う、比較的新しい流行りのスタイルをとっている雑誌である。編集方針には「本雑誌に掲載する論文の要件は、技術および方法論が確かな原著であること。インパクトや新規性は問わない」ことが明記されている。論文の重要性の評価は読者に委ねるということだ。同様のコンセプトの雑誌は他の出版社(組織)からも出版されている。しかし実はこの編集方針が、時に編集委員にとって厄介なものになる。

この部分、かつては確かに"without any requirement for novelty or broad interest"のような表現になっていたのだが、最近 ",,without any requirement for impact or conceptual advance" に変更されている。「novelty(新規性)を問わない」ことに無理があると雑誌社も気づいたのだろうか、。

 少し前までの常識では、科学論文は堅固な方法論で成立していることは当たり前で、内容の評価は、新規性とインパクトの大きさに依って立っていた。レビューアは新規性のある結論を確かなものにするために追加実験を要求したり、より良い論文になるように助言を与えたりするものだ。ところがこの雑誌では新規性は問わないといい、その基準に従って論文を評価するように編集者やレビューアにも要求する。つまり、新規性も科学領域に与える影響もほとんどない結論の論文でも、方法論的にちゃんと実験していれば、この雑誌では採用されるということになる。普通に複数の実験をして、何らかの無理のない結論を導けば採用されるということだ。

 無論、この雑誌に投稿されてくる論文の中には、道理のわからない実験と稚拙な考察で構成されたようなものもある。このような論文は問題なく不採用だ。しかし、方法論には問題はないが全く新規性のないものや、結論にも問題はないが何の意義があるのかわからない論文を、この雑誌の基準で評価するのは難しい。基準をまさに尊重するなら、これらの論文は採用されてしかるべきである。しかし新規性や影響力を意識して研究を進めることに慣れた研究者の性が、これを許さない。レビューアは問題点を挙げて厳しい(本来正当な)評価をし、私は不採用を決める。

 不採用を決めると、しばらくして出版社のオフィスからメールが届く。「本当に不採用なのか?あなたが一度不採用を決めると著者は二度と再投稿できないのだが、しかるべき修正を加えることで採用にならないのかどうかもう一度考えてくれないか?」「レビューアのひとりはコメントの冒頭で『興味深い知見を含んでいる』と書いている。興味深いということは改訂をすれば掲載可能なのではないか?」 というのである。編集者としては、編集方針に照らし合わせてどこがどのように問題で不採用となったのかを(もちろん英語で)申し述べなければならない。不採用のたびにこんなやり取りが繰返される。これほど労力がかかって無駄なことはない。これに対して、論文を「採用」とした場合はオフィスからクレームが届いたことはない。それならばいっその事、どんな論文でも「採用」にしてしまえという衝動に駆られてしまうほどである。実際、そこまで極端ではないが、知見の新規性の乏しい(いわゆるつまらない)論文を編集方針の基準に照らして「採用」にしたことはいくつもある。

 なぜこれほどまでにこの雑誌社は論文の不採用を嫌がるのか? もしかすると、インパクトには欠けるが中堅どころのそこそこの論文を根こそぎ自分たちの雑誌で掲載して、他社の雑誌に回したくないのではないか? と勘ぐりたくもなる。

 こういうことをしていると、玉石混淆の論文が大量に投稿されてくるのは想像に難くない。一方、編集委員は今までの経験から、投稿された論文の担当を引き受けてしまうと大変な作業があとに待ち構えていることがわかっている。だから、よほど自分の領域にフィットした論文でなければ、担当を断ることになる(はずだと思う。私はこの雑誌に限ってそうしている)。その結果、大量に投稿された論文はオフィスでスタックし、オフィスのチェックが終わっても、編集委員をたらい回しにされてなかなかレビューアが決まらないということが起こる。

 実際、この雑誌はそんな状況に陥っている。つい先日、オフィスから「あなたの専門領域から外れることはわかっているけれど、担当してくれる編集委員がいないのよ助けて」と懇願するような依頼が来たので仕方なく引き受けた論文の履歴を見ると、12月23日に投稿、オフィスのチェック終了が1月6日、そのあと9人の編集委員に断られて2月5日に私のところに届いている。投稿からレビューアに回るようになるまで一月半である。その前に届いた投稿論文も同じようなものだった。もはや、この雑誌の売りであった Fast decision は望めない。さらにすでに書いたように、この雑誌で採用された論文の質は必ずしも良いものばかりではない。つまるところ「研究のインパクトは論文を掲載した雑誌のインパクトと無関係で、個々の論文がそれぞれ別個に評価されるべきだ」との考え方に基づいて考案されたこのような雑誌の編集システムはかなり危うい状態になっていると私は感じている。

         ー     ー     ー     ー     ー

 一方、有名な雑誌社のブランド名が影響しているのか、この雑誌の Impact factor は実は低くない。その Impact factor を目当てにまた大量の論文が投稿されて、またオフィスにスタックしてと、悪循環に陥っているようにも見える。普通に考えればこのような雑誌の Impact factor が高止まりするはずはないのだが、、、。この雑誌とほぼ同じコンセプトで編集されている別の雑誌の Impact factor は年々下がってきている。しかし、私が編集委員をしている方の雑誌の Impact factor は、驚いたことに上昇傾向にある。そんな Impact factor に見合うだけの論文が本当に掲載されているのか、はなはだ疑問だが、事実上がっているのだから仕方ない。私は別に Impact factor 信奉者ではないが、 この数字が今後どうなるのか少しだけ興味がある。

 こういう状況を見て、昔読んだショートショート(超短編小説)を思い出してしまった。作者は星新一さんか筒井康隆さんだったと思う。こういう話だ。ある日、主人公の男はテレビを見ていて、画面に合わせるかのように自分の目に数字が映るようになったのに気がついた。調べてみると、どうやらその数字は見ている番組の視聴率のようだ。見えた数字を記録しておいて、後日発表された視聴率と照らし合わせるとぴったりと合っている。この特殊能力は、最初は、男にとって特段役に立つものではなかったが、やがてそれが世間に知られるようになると様相は変わる。この男がいれば労力とコストをかけて視聴率を調べる必要がなくなり、テレビ業界は視聴率調査を男の手(目)に委ねるようになった。そしてついには、良い数字が見えたことにしてもらおうと、テレビ局関係者がこぞってこの男を饗応するようにまでなり、男は大金持ちになる。しかしその時、実はもう男には視聴率を感知する能力はなくなっていたのだった。だが男は全く困らない。なぜなら、世間にはすでに視聴率を調査するシステムが完全に失われていて、視聴率は男の思うままに決められるようになってしまっていたのだから、、、。
 
 雑誌の Impact factor は今もしっかりとした調査に基づいて算出されているのは知っているが、その計算に使われる数字が雑誌社のブランド名に引きづられて、掲載されている論文の実態とかけ離れて一人歩きしているとしたらどうだろう? 確かに Impact factor も視聴率も、論文や番組の質とは直接的には関係がない、という意味では同じなのかもしれない。そうだとすると、我々は今、このショートショートと似たような状況の中にいるのかもしれない。ショートショートの中の男の目は、雑誌社のブランド力に当たるのかもしれない。男を饗応する局関係者は、我々自身である。



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posted by Yas at 17:13| Comment(0) | 科学的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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