2012年12月04日

「三宅久之さんのように」と、酔っ払いながら考えた

 一昨日、先頃亡くなった政治評論家の三宅久之さんの追悼番組を見た。このブログで時々私が紹介した、稀代の名TV番組「たかじんのそこまで言って委員会」(東京では放映されていない)での特集である。

 三宅さんはコメンテーターとして、司会者(ただいま病気療養中とか)のやしきたかじんさんとともに、この番組で重要な役割を演じていた。常連のコメンテーターと正面から議論を戦わしているかと思えば、愛嬌のある語り口で冗談も言う(関西人にとっては、この冗談を言えるかどうかが、相手を認めるかどうかのキーポイントになったりする)。時に自らの信条に反することを相手が言おうものなら、大きな声で怒鳴る。そんな姿は頑固者そのものだが、しかし三宅さんには同時に相手をどこかで慈しむ風情があった(ときどき、どうしようもないゲストに全く容赦ない言葉を浴びせることもあったけど)。ほぼ話の噛み合わない田嶋陽子さんとの論戦(同番組の名物だった)でそれは顕著だった。「人間はいいけど、思想がよくない」というのが三宅さんの田嶋評だった。この言葉からも、意見の合わない田嶋さんに対してでも何かしらの愛情が感じられる。実は、それは三宅さんだけのはなしではない。この「たかじんのそこまで言って委員会」のレギュラーコメンテーター達には、お互い厳しい言葉を時に浴びせ合ったりするくせに、お互いに(程度の差こそあれ)どこかしら認め合っているような様子がある。そのために厳しい言い合いもどこかじゃれ合いのように見えて、私はそんな様子を見るのが好きだった。ひょっとするとテレビ的な演出も少しはあるかもしれないが、番組中でも明らかに仲の悪そうな田嶋さんと金美齡さんの様子を見ると、やはりその他のレギュラーコメンテーター達の間にはそれぞれに個人的な信頼感でどこか通じ合っているものがあるのだと思う。厳しい議論が許されるのは相手のどこかを認めているときだけだ。そうでなければ、それはただの醜い言い合いだ。どちらが正論か、という問題ではない。それと、相手を攻撃するためだけの議論も論外だ。

 さてそこで、研究室の話。私は研究室を主宰する立場で、研究室メンバーと議論する。その時に、私に相手を慮る気持ちがあるかどうかちょっと考えた。研究を進める上で、時にはメンバーと厳しい議論をすることはもちろんある。そんなとき、確かに基本的には相手の未熟を考えて言い方を選ぶようにしているのだけど、「相手の未熟」を考えることは信頼感とはちょっと違う。いや、だいぶ違う。
 一方、相手の様子を見ると、私に何かを言われて言葉を飲み込む風情を見せることがある。私は研究室のPIで、相手は構成員だ。そのコンテクストで彼らが言葉を飲み込んでいるとしたら、双方にとってそれは愉快なことではない。そんな議論は私にとっては中途半端で、相手にとってはストレスフルなだけの儀式なのかもしれない。

 あー 三宅久之さんのように、気楽に徹底的に言い合えたら楽しかろうに。 ビール3本目を空けながら、そんなことを脈絡なく考えた。

 三宅先生、ご冥福をお祈りいたします。


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posted by Yas at 22:47| Comment(0) | 私的先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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