2007年03月04日

龍をみたか

 少し前にも書いたが、もう三月である。人の移動の季節。課程を修了した学生さんは去り、一方で大学院での研究生活を始めるためにやってくる人がいる。ポスドクの移動も、もちろんある。そんな若い方たちと自分の若い頃を重ね合わせて思い出すことがある。ちょっと私のキャラには似合わんが、はなむけの言葉として書かせていただく。

 大学の学部から大学院の学生だった頃、わたしは生意気盛りだった(今でも生意気かもしれないが、それは置いとくとして、、)。不遜にも「すでに仕事や将来の確定した大人よりも、若者は活力や可能性においてはるかに優っているのだ」という向こう見ずな論理で、研究のことでも生活のことでも、目上の方に対して何でもかんでも屁理屈で口答えしていたかも知れない。

 そんな頃、ある小説を読んだ。三田誠広、「龍をみたか」である。あらすじはこうである。

 父親に社会から隔離して純粋培養のように育てられた若者が、父親の死をキッカケに自著の小説を抱えて上京する。小説の中身はたいしたことがない。素人の文章だ。だが、世間ずれしていない若者は話題になりやすいと、まわりの大人に若手小説家の旗手として祭り上げられた結果、売れっ子小説家になる。そんな彼の余禄に預かろうと近づく者、いわれのない誹謗中傷をする者、世間の魑魅魍魎が若者を傷つけ、周囲を傷つけていく。若者は疲れ果て、自らの境遇を嘆いてある老人に涙ながらに尋ねる「僕はこんなに精一杯やってきたのに、どうしてそれが、結果として多くの人々を傷つけることになってしまうのでしょう!」と。問われた老人はこう答えた(以下引用)。

 「わしは信心深い人間ではないし、専門の研究家でもない。しかし、若い頃読んだ、西洋の宗教書の一節だけは、不思議に強く胸に残っている。あれは、何という章だったろうか。詳しいことは忘れてしまった。何でも、実直で信心深い男が、いわれのない災難に遭う話じゃった。男は、神に問いかける。私の行いは正しいのに、なぜこのように苦しまねばならんのか。その男に神が何と答えたと思うね、白鳥クン(ホリグチ注:主人公の若者のこと)。神はただ、お前は龍を見たことがあるか、鯨をつることができるか、と逆に問いかえしただけなのだ。むろん龍など、みたもののおるわけがない。実にわけのわからない、無理な注文だと思うだろう。しかし、そうではないのじゃ。神の言わんとするところはこういうことじゃ。たとえどのように正しく、すぐれた人間であろうとも、ひとりの人間に与えられた知識は、ごく限られたものにすぎぬ。その限られた知識の上に立って、あたかも全能の神のごとく、自分は正しいと声を大にして呼ばわることは、無知であり、傲りであり、神を冒涜することにさえなるのではないか。ー わずかばかりの知恵を頼みとして、神と議論しようとくわだてたその男に対して、神はただ、龍をみたか、と答え、人の知恵に限界があることをお示しになった。男はおのれの非を悟って悔いあらためたそうじゃ。わしはな、白鳥クン、神なんぞというものが、あるのやら、ないのやら、よくはわからんが、その話を読んで以来、おのれが傲りたかぶっていると感じられる時には、すかさず、龍をみたか、と、おのれ自身に問いかけることにしておるのじゃ」

 この小説は当時の新聞に連載された。小説自体はギャグ仕立てのドタバタでそれほど評価が高かったわけでもないように思う。絶版になっているようで、今では新版本は手に入らない。だが間違いなくこの一冊は私の座右の書と言っていい。私もこの老人と同じで、なにか考えるとき折にふれ、「おまえは龍をみたか?」と自問するようになった。

 「お前は龍をみたか?」といってみそ、、。きっと人から学べることが多くなる。
posted by Yas at 18:42| Comment(0) | 科学的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする