2006年12月09日

川崎泰生さんを偲んで

「川崎泰生さんを偲ぶ会」に出席し、さきほど研究室に帰ってきた。会は阪大吹田キャンパスのコンベンションセンターで行われた。余計な演出のない厳粛な会であった。企画運営された実行委員会の先生方にお礼を申し上げたい。親しい友人方の弔辞にはいずれも大事な友人を失った無念さがにじみでており、誠に共感するものがあった。なぜ死なねばならなかったのか? 誰しも一度は問いかけ、誰しも「本人にしかわからない」と結ぶ。同感である。だがしばらくするとやはり問いかけずにはいられない、「なぜ死なねばならなかったのか?」。

 ずっと前にも書いたが、川崎さんと私は同年同月付で微生物病研究所の助手になった。同じ教授会の日に続けて挨拶をしたらしい。実はその時のことをよく覚えていないのだが、それを思い出させてくれたのは川崎さん自身だった。当時私の所属した研究室は若い人がおらず、ほかの研究室と横のつながりを持つすべがあまりなかった。ある時、少しは話をする仲になっていた当時品川研の助手であった岩崎博史さんに誘われて、ひょんなことから助手数人でお酒を飲むことになった。場所は今の微研では特任助教授の永井宏樹さんの研究室の居室にあたる。そこに杉野研の談話室があり、そこで初めて川崎さんと言葉を交わした。「教授会で一緒に挨拶をしましたよねぇ」と云われて、それで私の方もそれが川崎さんであったことを認識した。どちらかというと小柄で線が細いように見えたが、お酒は強かったように思う。その後何度もよく飲んだ。杉野研でも飲んだし、こちらの研究室でも飲んだ。とくに新人歓迎会やソフトボール大会など、微研で催事があった後などは必ず飲んだ。川崎さんと旧知の永井宏樹さんが一時帰国して微研でセミナーをしたときも、大学時代の同級生であった古瀬幹夫さんがこちらの研究室に遊びに来たときも、飲んだ。研究での接点は実はほとんどない。それでも彼が留学から帰って微研で報告セミナーをしたときは興味深く聞かせてもらったりした。大学センター試験の試験監督を一緒にしていたとき、彼が休憩時間に「岳人」を読んでいたのを覚えている。その頃には「やまおとこ」としての彼のイメージが私の中にもできつつあった。むかし、微研では秋に部員会主催で運動会をやっていた。その時の障害物競走の競技説明のデモンストレーションで、係であった川崎さんは下半身をズタ袋に入れて必死でコース上をジャンプして見本を見せていた。「見本やねんから、そんなに必死でやらんでもええやろ」と私などは苦笑しながら思ったが、それが川崎さんという人だったように思う。

 「偲ぶ会」の会場で次々と投影される彼の写真。子供さんを抱きかかえる姿があり、ウォータークライミングやロッククライミング、スキーに雪山登山の姿があり、そして山小屋の記録帳のようなものに彼が記帳した絵や文章。それぞれを眺めながら、ここまで彼はなんと豊饒な人生を送っていたのだろうか、とつくづく思った。そんな暮らしを打ち切らねばならなかったのはなぜなのか?答えのない問いをやはりしてしまう。「偲ぶ会」には私にとっても懐かしい人がたくさん出席されていた。こういう機会で懐かしい人に久しぶりに出会うのはある意味つらい。「偲ぶ会」のあとに食事会のようなものが企画されていたようだが、私は(あくまで個人的事情で)告別の会での酒食を避けていることにしているのでそのまま会場をあとにした。研究室に帰って文献を読んでいたが川崎さんの思い出が何度も頭の中にあらわれるので、たまらずこうして追悼文のようなものを書いた。ほんとうに、ご冥福をお祈りいたします。
posted by Yas at 18:21| Comment(0) | 科学的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする