2006年10月09日

ずっと気になっていたこと

 少し前に、安倍新総理の「すべての子供に高い学力、規範を身につける機会を保障しなければいけない。そのため公立学校をしっかり再生させたい」という教育改革の理念と実践は応援する、と言った。今日の毎日新聞の社説がこの安倍新総理の方針に噛みついた。曰く、「「規律ある人間の育成」を目標に掲げる安倍首相は、教育への国の関与の度合いを強め、管理の徹底を目指しているように見える。」、、、なんでそうなる? 曰く、「しかし、その方向は、教育をできるだけ学校や地域の自由に任せ、子供達をのびのびと育てていこうという教育本来の理念から、かけ離れてはいないか。」、、、教育本来の理念がのびのび?、学校や地域の自由?、、、また、子供達が行きたい学校を選択できるという安倍構想の教育バウチャー制度を取り上げて曰く、「しかし、学校間に競争原理が持ち込まれることになり、格差の拡大を招くおそれがある。教育現場の管理と競争が強まることで、子どもたちの心からゆとりが消えてしまいかねない。」、、、なんと天真爛漫な考え方だろうか? 

 規律ある人間の育成ってあたりまえじゃないのか?これを国が目標に掲げると、なんでまずい? 国がやっても地方がやっても、問題はしっかりした理念のある教育を行うかどうかということで、国か地方かと言う問題は本質ではない。北海道滝川市の教育委員会のいじめ問題の取り扱いを見ても、教育の主体として国が否で地方が是とは思えない。のびのび?、、のびのびは教育の本道なのか? だいたい、国が関与するとのびのび教育ではなくなると言う根拠はなに? ゆとり? 今年はゆとり教育一年目の学生が大学に入ってきた。私の受け持つ基礎セミナーを受講した学生は「私たちはゆとり教育でしたから、まともな教育されてないんですよ」と自ら卑下して言った。阪大の学生が、である。子供達の学習能力には差がある。運動能力、歌唱力、絵を描く能力に差があることを見ても当たり前のことだ。、私が経験する限り、学校には(小中高と段階を追ってという条件付きで)格差があったほうがよい。学習能力の高い子には高度な教育を与えるのがよい。あったりまえのことだ。

 あまりに安易な毎日新聞の論旨にムッときたので、しっかり論破しようとしたのだけどブログのサイズではちょっと無理っぽい、これ以上書くと極端な議論になりそうなのでやめる、すまん。ただ、規律や規範を持ち出すとそれは子供を管理することにつながる、子供の教育はのびのびとゆとりがあるべきだ、という脳天気な理論に反応してしまった。こういう考え方が「人に迷惑をかけなければ何をやっても良い」という浅薄な教育理念を生み、そうして法律にふれるかふれないかと言う基準はかろうじて理解できても、そのあいだに道徳という規準を持たない子供が育つのではないか、とずっと気になっていた。学力のある子には各々相応の高度な教育を、そうでない子には勉強で苦しむことのない、しかしプライドの持てる道を提供できる社会が理想ではないか? なによりも、「すべての子供に高い学力、規範を身につける機会(!)を保障しなければいけない。そのため公立学校をしっかり再生させたい」という安倍首相の言葉。経済的に恵まれていなくても学力のある子に教育を施せる公立学校、これは絶対必要だと思う。

 ずっと気になっていたことに、毎日新聞に火を付けれらたので書いてしまった。今日は気楽に自宅の熱帯魚水槽の自慢をしようと思っていたのに、妙に熱い議論になってしまった。当該の社説を読んだ方、もし私が社説の論旨を誤解しているか、ここに書いた議論が上滑りしていると感じたら教えてチョ。
posted by Yas at 23:20| Comment(0) | 非科学的日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする